ただただつらいというのは快感のメタファーであるという仮定

[形][文]つら・し[ク]
1 他人に対して冷酷である。非情である。むごい。「―・いしうち」「―・く当たる」
2 精神的にも肉体的にも、がまんできないくらい苦しい。苦しさで耐えがたい。「―・い別れ」「いじめられて―・い目にあう」「練習が―・い」
3 対処が難しい。困難である。「―・い立場にいる」「その話をされると―・い」
4 人の気持ちを考えない。つれない。
「からころも君が心の―・ければ袂はかくぞそぼちつつのみ」〈源・末摘花〉
5 冷たい態度が恨めしい。しゃくにさわる。
「―・しともまた恋しとも様々に思ふ事こそひまなかりけれ」〈和泉式部日記〉
→苦しい[用法]
[派生]つらがる[動ラ五]つらげ[形動]つらさ[名]


つらいです。ただただつらいのです。何がつらいかって最近できた全身の怪我と花粉症と顔から上半身に至るまでの日焼けと鼻かみすぎて荒れてきてる肌。一つ一つがまた色を持っていて、僕の真っ白な(少なくとも自分が考えている上では)キャンパスを無秩序に汚されているような気持ち悪い感覚が非常につらいです。とは言っても毎日ちゃんと朝ご飯食べて糞して幾ばかりの睡眠を取れているわけで、身体的につらいのは実に一時的なのです。

つらいです。ただただつらいのです。何がつらいかって最近悩むのです。まだまだ社会という蚊帳の外にいる俺ですが、理不尽なことには理不尽と言い、間違っていると思うことには間違っていると言えるようなまっすぐ(少なくとも自分が考えている上では)な性格に育て上げられてきたので、納得のいかない自分の人生観に悩むのです。とは言っても毎日ちゃんと朝ご飯食べて糞して幾ばかりの睡眠を取れているわけで、身体的につらいのは実に一時的なのです。

そして数日前にはもっとつらいことがありました。友達2人と自転車で富士山までいってキャンプしようということになったのです。案が投下されたのは事実上の出発日の2日前。skype上で決行の了承。いやあ今考えると本当にどうしようもなく無謀なプラン構成だったわー。なんでこんなこと行く前から気づかなかったんだろう。そんなプランを下記にて開示。今後の皆様の旅行に少しでもお役に立てればと思います。まずはお近づきの印として一読を。


「横浜から自転車で富士の樹海通って富士山上って途中のとこでキャンプしようぜ」最終決行案

・おおまかな日程
まず1日で気合いで富士山までたどり着いて上ってキャンプ場までたどり着く。んで2日目はキャンプ場およびキャンプ場周辺でのんびりして疲れをとる。3日目でとりあえず小田原までは行ってそこで1泊。4日目で横浜まで戻ってくる。

・予算
2万円

・持ち物
洗面具、自転車、着替え、携帯その他、お金、ちょっとした食べ物、飲み物


これは俺のつくづくいけないところでまじ直したいなーって思うところなんですけど、今回もそのせいで痛いめにあったし、基本的に物事を甘くみるところがあるんですよね。例えば、仕事でプロジェクトたてたとして「はいっそれはこのプロジェクトAのPMを君に任せます」とかなって俺がやったときに全体のフローとかフレームワークとかは綺麗にまとまっているように見えるんだけど、所詮そんなものは砂の城であってそもそもの時点で俺が問題を甘く認識してたから、根っこの部分がちゃんととれてなくてそこから雑草みたいにタスクが湧き出てきて「あっじゃあこれ君にお願いするね〜」とかってなってうわああああ!!!ってなるんですよね。これって別に仕事じゃなくても遊びでも出てきて。遊びだったら飲み会の席とかで「こういう経験もあったな〜やっぱり俺ってあの時よりは大人になったよな〜」とか言って自己陶酔に浸って楽しめるかもしれないけど、仕事の場合は度合いによってはそんなことものうのうと言ってられないでしょう。まあ俺の個人的な話は置いておいて。

このプランの何よりも自信をもって言えるところは1日目の絶望的な苦しさなんですよ。そしてそれは1日目で目的地までたどり着くというあまりに無謀なプラン立てに起因するのでございます。何と言っても僕たちが目指していたキャンプ場は標高1000m、距離的に言うと横浜からだいたい150kmもあるものですから往復で言うと300kmですかね。はい、このことも全く計算外でした。どんなに坂をあがっても坂しかないんです。途中何度も何度も苦しい→もうだめ俺死ぬわ→いやだめだ俺はここで生きていくんだ→苦しい→もうだめ俺死ぬわ...のサイクルをまわし続けていました。
これは完璧な余談ですが、目的地に到着するとそこは辺り一面スギの木だらけ。俺の花粉症が火を噴いたのは言う間でもありません。
とは言ってもこうやってちゃんとお家に帰って今もこうして健全な顔してスクリーン画面とにらめっこしながらパソコンをカチャカチャしているわけで、身体的につらいのは実に一時的なのです。

つらいっていうのは自分個人の主観の入った狭義的な意味では、変な気持ちよさを如実に表しているなとか思っちゃうんですよね。多分これは俺がそういう使い方をしてきたというのと、そういうやつらしか俺の周りにいなかったっていうのはすっごく大きいと思うんだけれども。なんか自分がつらいと思っていることが自己陶酔の要素であるというか。いや単に自分がつらいという状態に無理矢理押し込めることによって外的環境や客観性の捉え方を変えようとする人間の本能的な機能の一つなのか。んーでもこういう感覚ってごく最近に若者の間で生まれたんじゃないのかなと俺は思っちゃうんだよね。人類学的な側面から言うならば、遺伝的な機能とかそういうものではないけど、もし本当にこういう社会的習慣が若者の間で流行っているとするならばその対象には必ず何らかの脅威があるわけで。極端な話かもしれないが、その(生命を脅かすかもしれない…は言い過ぎだけど)脅威への対抗手段の1つとしてあるのでは?

もしかしたらつらいを発することがある種の快感に繋がりうる理由は、「俺はこんなに頑張ったんだぞ」とか「こんだけつらかったけど俺はなんとか乗り越えた」とかそういう結局俺すごい論みたいなものを他者にぶちまけるための道具でしかないのか。いやーこんだけ考えたのにこれが一番しっくりくる笑

結局どんなに幸せなやつでも不幸なやつでもつらいことってのは起こりうるわけでそんなことをいちいち気にしていたら前に進めないでしょって言うのを暗に示しているかのように人間の脳には忘却機能というものが備わっていてその忘却線は時の経過と比例してどんどんその時の(事実は別として)感情さえも忘れてしまうわけです。

そして今まで一生懸命書いてきた文とは全く関係がないけれど、結局僕はこの文章に納得しそして腑に落ちるわけです。だいぶ自分の中で編集してはいるものの。

どんなものにもいい面と悪い面がある。
何事にも両面ある。
この事実は、喜劇の中に涙の部分が含まれ、明るい曲に暗い部分があり、甘いおしるこに塩が入っており、厳しい私の妻に怖さが混じっているのと似ている。

だが大抵の人は悪い面ばかりに注意を向ける傾向がある。失敗や欠点などの悪い面を気にしないように見える人も、内心は悪い面を気にしている。

なぜそうなのかというと、多くの人生活の大部分に問題がないと考えているため、悪い面にばかり目が行くからだ。

ちょうど、虫歯が一本あれば、舌は他の健康な歯を無視して虫歯にばかり触れたがり、逆に、歯が抜けて一本だけ残ると、舌は残った一本に触りたがるのと同じだ。要するに人は大部分を占めるものには注目せず、少数の例外的部分に注目してしまうのだ。

もし自分が欠点だらけなら、わずかな美点が注目を集めるはずだ。欠点に注目が行くということは美点に溢れているということ。


どのご時世も俺たちにとって都合のいいものは当たり前だし、一方で悪い物は問題として捉えてしまうんです。