弱みに漬け込んで互いに依存し合うってのは冗語で全然言えちゃうくらい正しいっての

ラストシーズンの終わりぎりぎりできって最終回を明日にとっておこうと思ったLOSTだったけれども、何となく流れで見てしまった。んで気づいたら深夜の12時を回っていたので溜息をつきつつ着替えを取りに2階へ。今日のシャワーはいつもより3倍増しで面倒だったのだが、親に臭いといじられたので結局入ることに。んでお決まりの長居パターン。風呂の中でリリーさんの「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」を読み終える。風呂を出るとなんと時刻は4時過ぎ。そんなだから寝ようか、寝ないか迷いつつも、、

「君が歩くのを待っている」
http://jkondo.hatenablog.com/entry/2013/04/03/004959

これを読んだ。俺が今日電話で友達と話していたことが綺麗サッパリ書かれていたので俺もちょこっとだけ便乗しようと思う。
俺はこの記事で言うところの教える側で言う前者だったと思う。自分が他人や後輩に何かを教えることにある種快感を得ていたし、もっと言えば仕事以外にも人生とか人間関係の相談もそれなりに受けていた。それを聞く姿勢として、またロジック立てて的確な質問を準備しつつ相手の意見もしっかりと汲み取るみたいな小学生のおままごとみたいなことを数重ねることが勉強になっていると思っていた。はっきり言って違うプロジェクトに関わっているときはこういうティーチングのプロセスが嫌いで仕方なかった。だからいつも他人任せにしてた。けど、ある時から何となく心地よくなって、自分でも気づかないうちに出向いて、細かいアドバイスをするようになっていた。「自分がこうした、ここをいじった」=ここが改善されたみたいなことに喜びを感じていた。

こんなことを続けているうちにあることに気づき始めてきた。面倒臭くなったのだ。なんというかコミュニケーションがどうのとかいうプロセスよりも「お前こんなこともまだできなかったの」とか「こんなレベルの質問まで俺に聞いてくるの?」みたいなことだ。上記の記事で言う「依存」だ。ただ俺の場合は幸いにもその時期にちょうどチームの転換期が訪れ、今では関わる回数も少なくそれなりに安心している。

っていうのが俺の共感部分なんだけど敢えて批判的な視点も加えて見ることにする。まずこういう状況を生み出す(というかもしすでにつくられていたのなら対策)みたいなのって時と場合に左右されることが多いと思ってる。つまり、君たちがどういう組織に置かれていてその組織のどういうチームで動いていてどういうタスクをしているときにAさんはこういう問題に対してAという手法を使うべきだとかまたBなのか。みたいな。こういう依存関係は具体的に教え続けることによって必ずしも生まれるものではないし、しかも待ってくれている(=聞き入る)みたいなスタンスの方が返って悪循環な方向に向いてしまうことだってある。飲み会とかでね。まあとはいっても読む限りまだまだ抽象論の話であって、俺が介入できる隙は全然ないのが確かなんですけれども。

敢えて自分なりの解決策を出せというならその新人とやらをPM(プロジェクトマネージャ)とかに置かせてみてはどうだろうか。でもいきなりやっても分かりませんってなるのは目に見えているので特例を作ってこのチーム内ではマネージャにつづいてこういう役職もあってこういう権限をもっているみたいなのもつくる。だけどあくまで一時的なものですみたいな。こういう制限がある特権を最初から作っておけばマネージャ(新人)と先輩の関係ってそれなりにいいと思う。ちょっと面倒だけど。あとは誰が責任を負うかっていう話だけどそれは本当にその状況によるな。要はこういうことを適材適所でもってける人みたいなのがかっけえリーダーなんじゃないかな。