オアシスから湧き出るように溢れ出る水は何のためにあるのか

カフェに行って留学関係の書類の見合わせ及び確認とオリエンテーション、授業履修関係を全て終わらせ、颯爽とジムに向かおうと思っているのですがこれがまた厄介なことに一向にやる気が起きない。この通り歴史的人物であり、かのダメ男代表織田信長もびっくりする程の典型的なダメ男っぷりなのですが、そこはやはりThanks to MT (Modern Technology) このブログを書き終えたら何だか外に出ていけそうな気がしてたまらないのでこうしてパソコンの前に向かっているわけです。それでは皆様、今宵も俺が生まれ育ったこの国日本の青く素晴らしい教育=日本的教育によって培われてきた冗長的文章をお楽しみ下さい。はっきり言って読んでも誰も得しないし、読むだけ時間の無駄であってそれでいて何の生産性を生むわけでもないから本当に俺みたいに暇こいてる奴以外は読まない方がいいと思います。
俺は別に世界的に2次的な事件の遂行、企画をするためのスパイでもなければ一般旅行者を装って実はその影で国外生活者調査員とか利用者がどうのとか、ましてやCPRとかTRIがどうのとか、じゃあこれするから君、この国のこの指数について調べてきてみたいなカッコイイことをしてるわけでもないし、世界を一口で割ってその断片の面積を求められるほど頭も発達してないしフェルミ推定もそんなに上手く出来る人とは一概に語れないけど、そんな俺でも学生ってオアシスから湧き出るように出てきた水の溜まり場だよなーって思う。何でそう思うかって言うと別に俺たち(含む学生って)正直何にも考えてなくてもやることも特に無いと言えば大学の存在意義の否定になるかもしれないけれど実際じゃあそういことしてるの?って聞けば(少なくとも)俺の周りで皆無に等しい。要は単純に生きていくみたいなことがすっごく楽にできちゃう時代だよね。毎日同じ時間に起きて、恋人なり奥さんなり(または親)が作ってくれたご飯食べて、学校行って授業受けてサークルいって、飲み行って遊ぶかバイトして家に帰って寝るの繰り返しでしょ?買いたいものもそれなりにあるだろうし、かと言ってそんなものって学生のうちにバイトシコシコやってりゃ稼げるもんばっかだろ?それを俺たちは自由って呼んでるみたいだけど、こんなものは自由もクソもなくてただの暇つぶしだよなー。折角MARCHとか早慶行ったって4年間(休学入れたらもっとだけど)という時間を使って暇つぶしっていう壮大なプロジェクトに挑もうとしてるんだからこんだけ成熟してきた(けど沈みかけてる)日本経済を手前にして言わしてもらうと中々度胸のある行為だと思うよ。そもそも自由なんて言葉は全てが後づけにすぎなくてこういうことしてこういうことしたからあいつは自由だなあとかって思うだけであってある種の修飾語みたいなもんなのよ。自由は過去のものってやつですよね。これって時間を扱う世界の中ではある意味で矛盾していて俺達って未来に対して自由っていう理想を抱くのに自由を感じた瞬間、自由は過去のものに成り下がるから毛局自由を意識して自由を抱くことは出来ない。だから俺達はいつまでも自由になりたがる。言葉を言い換えれば自由になりたいのに自由に不自由にされているようなもんだよな。こういう時こういう内容を書く研究者とかジャーナリストって章としての説得力向上のために海外の教育や国家としての仕組みを例題として取り上げて筆者の仮説→検証(比較)→対比→結論みたいな文章構成使うと思うんだけど。悲しいことに俺が知っている海外の学生事情は全体から言うとほんの一握りだし、そんな事情を例に使った所でも結果的に説得力を引き下げに繋がるだろうと考えたので保留にしとこうかな。でも1つだけ言えるのは(そして話は戻るけど)そんな微妙な隙間、難しい感覚を図るために学生達が組織化を目指したり、最近だと既存の組織に新たに属して何か社会人でやることの先回りをする。これが大半なんだと思う。
俺の中では今の日本(or アメリカ)を比較するに最高の対象枠は60年代辺りだと確信的な根拠を持って言えることができて、それは単に比較しやすいということも理由として入るし、もっと単純に俺自身が歴史の中で一番この時代が好きなんだが。ちなみにこの時代にもやっぱりおんなじような学生の運動ってのはあった。ドイツのブルシェンシャフトとか、ストゥーデントパワーとか。行動としての形は違うだけでモチベーションは同じなんだと思う。結論?いや締めくくりとしてはものすごく虚しいのだが、何というかどの時代でもこういうことを考えている人はいるわけで、その中でもこういう行動をスゴイと感じる人とダメダメと批判する人もいるわけでこの一連の流れを一元化することも一元的に捉えることも難しいことだと俺は思ってる。ここでいきなり学生はオアシスから湧き出るように出た水論を最後に再引用するが、結局こういう不純な水が湧き出るような環境を作り上げたのはオアシス(社会)であり、水(としての成分)自身の問題でもあると思う。そんなことより結局水はただの水であって最後まで水なのだから最終的には砂漠の中で水分を吸収されるか良かれ、蒸発するかの話である。こんな説教じみた文章を書くのも結果的に完全なるエゴであり、自己陶酔というかそもそも俺が今から書類諸所とジムに行くためのモチベーションとしてなのでこれらの文章は全くもって水に流して過去のものとしてもらって構いません。じゃ、行ってきます。