続: 英語を喋れるようになるための手っ取り早い方法はコンテクストをたくさんストックすることだと思うけど反論あります?

いつも通り早上がりかと思いきや、今日は予想以上に働からされて汗だくになりつつも外はもう日がさす今日この頃。何とか帰路に着き、大学関係の書類を半分くらいまで読み進め休憩というところでヨーグルトと麦茶を頬張りながらこのブログを書いている次第でございます。日本の皆様、今日もおはようございます。さて私も今月来月と中々忙しい日が続きそうなのですが大学の方も無事進路が決まり書類手続き関連と言った諸所の面倒事はあるものの、一安心ということろでしょうか。とは言っても肝心なステップは向こうに行ってからの2年後なのでまだまだ気は引けないですが。このブログの発端はアメリカに行くまでの気持ちの整理とアメリカに行ってからの簡単な日記兼勉強メモみたいなものだと認識しているので向こうに行ってもまだまだ続ける気で入る予定です。相変わらず写真を載っけるつもりは紙一重としてありませんが。ところで今日は読んでいる本について書こうなんて思ったのですが、自分も相当の浮気症な者で中々一冊の本を読了するという行為にありつけることができません。6月の第1週までには何とか読み終えるつもりですが。改めて大学入学(?)という壁を正式に通過するわけですが、向こうではこちらと比較して自分のとる専門分野に責任を持たなければいけないわけです。リベラルリベラルと騒がれているアメリカですが、私はこれまで自分の専門分野に関して幾度と無く尋ねられてきました。そんなことを一言で答えられるほどでもなく、口下手にゴマゴマと説明をする苦労を何回も味わってきたわけです。加えて私の場合は2年後のCAでトランスファーを狙っているため自分の専門とその先の大学、進路での関係性が非常に重要なことくらいは猿でも分かることですね。この命題に関してはまた後ほど書き下して見ることに致しましょう。
さて、この間書いた記事: 英語を喋れるようになるための手っ取り早い方法はコンテクストをたくさんストックすることだと思うけど反論あります?の例題として非常に良い具体例が記されている文章をいくつか発見したのでその記事を使って前回よりもうちょっと歩いて考えてみようと思います。まず英語の出来はコンテクストに依存するという結論に至るまでのきっかけの一つがwouldとcouldという2つの助動詞です。アメリカへ飛び立って以来、この2つには相当悩まされました。ただ言い回しを反復して覚えるだけでは限界があると直感で感じたからです。この2つはいわゆる"Subjunctive mood" =仮定法として国問わず理解されていますが、どうしても日本的な考え方だと無理が生じるだろうと考えたわけです。その理由はこういった(繊細ある意味で微妙な)表現を日本人は使わないからです。いや、正確には使わないと言い切れることは出来ないのですが、ここまで形体の変化を厭わないと考えて頂けるといいかもしれません。would、couldなんてのはコンテクストを理解していなければまず使うことなんて出来ません。ただシンプルにThat'd be ◯◯.だと急な丁寧語になってしまい気持ち悪い(もしくはちょっとしたネタ)になってしまいますが、コンテクストによっては◯◯になっちゃうよねぇ的なコンテクストにマッチしたカジュアルな文とも捉えられることが出来るわけです。また、ここにも書いてありますが(正確にはこの記事ではwouldの文法的昨日について問うていますが)

Is he coming today?
No, I don't think so.
No, I wouldn't think so.

の2つは微妙なニュアンスの違いが含まれているわけです。こんなことをアメリカ人に聞いたところで、よっぽどの文法キラーじゃない限り"depends though, its all about context"なんて返されてしまうのがオチでしょう。別に抽象化しているつもりはありませんが、感覚なのです。感覚こそがコンテクストであり、コンテクストの積み重ねこそが感覚なのです。この事実にいち早く気づき仮説と実践、経験を身につけた者が英語を喋れるようになるということにおいて前に進めることが出来るような気がしてなりません。参考としてこちらも読んでみて下さい。ちょっと短めにまとめたのでどうしても伝わりきれていない部分があると思いますが、何よりこれでやっと寝所につける気がします。