負けたくない、という重い想い

相変わらずの仕事(というか勉強?)オール明けで頭がおかしくなっているので自分の実力とか強さとかなんかそういうことについて自分が完璧に眠くなるまで書き続けてみようと思います。
ところで全然話は変わるんですけど「他人は自分の鏡」っていう言葉ありますよね?個人的にものすごく的を得ているなーって僕は学生なりに思ったりするんですよね。っていうのはその根底哲学には「人間は他者との比較によってしか自分の知り得ない」んじゃないかって最近強く思うようになったんですね。極端な話、この地球上に人類が僕一人しかいなかったらそれはそれでまあまあ幸せなんじゃないかって思ったりする自分がいる。比較対象が何もないから自分を他人と比べる必要もないし、自分の自己完結した思い込みと世界観だけで死ぬまで生活できるのではって思ったんです。
僕は比較っていう考え方は人間の歴史の歩みの中でものすごく根強く関係していると思っていて、比較という概念があるからこそ人は物事の善し悪しとか優劣をつけるんですよね。例えばここにAさんとBさんがいるとしてCさんがAさんに向かって「君めっちゃ可愛いね!」って言ったらBさんは何も言われなくても劣等感感じません?これ対比って言うんですけど根本には比較っていう概念があるんですよね。だからBさんは自分の容姿にコンプレックスを抱くかもしれないし「私はもっと違う、何か勝てる分野で勝負する」とか言って思考や行動が複雑化されてくと思うんですよね。
もっと違う分野で考えましょうかね。例えば生物行動学とかでも同じことが言えるんじゃないかって思うんですよね。どっかの小説にグッピーの実験が書いてあったのでそれでも例題に出しましょうか。ここに透明の水槽があります。そこには3つのスペースに区切られていて書くスペースの間には透明の板が入っている。(つまりスペース間の移動はできないけど互いの様子は見れるってことです)一番左のスペースにはオスのグッピーを一匹だけ入れる。真ん中のスペースにはメスのグッピーを一匹だけ入れる。一番右のスペースにはオスとメスのグッピーを一匹ずつ入れる。すると一番右のスペースにいる2匹のグッピーはいちゃいちゃし始めますよね?必然的に。んでそれを確認した後右のスペースのメスのグッピーを水槽から追いだしちゃう。そんで水槽を仕切っていた透明の板を2つとも取り払っちゃう。するとどうでしょう。真ん中のスペースにいたメスのグッピーは先程までイチャイチャしていたオスのグッピーとイチャイチャしたがるんですね。例えそのオスのグッピーが生物学的にもう一方のオスのグッピーより劣等種だとしても。まあ何がいいたいかって言うと少し視線を下げてグッピー目線で考えても比較がなされているっていうのはごく自然な行為なんですよ。
もっと現実的で分かりやすい例えを出したいと思います。僕達人間ってそもそも比較っていう画期的な手法を使って人類の進歩に貢献してきたと思うんですよね。どういうことかというと世の中を良くすることってやっぱり他人と違うことしなきゃいけないと思うんですよね。渋谷にカレーのレストランだけしかなかったらつまらないでしょ?そういうことですよ。僕が留学した理由って何を差し置いても「人と違うことがしたかったんじゃないか」って友達に言われて全身に雷が落ちましたね。まさにそのとおりだなと。これって全部根本に比較っていう概念があるわけですね。
そもそも人類の歴史の始まりから村社会らへんまですっ飛んで考えると(その辺が一番分かりやすいので)人類が村とか作って灌漑農業とかやり始めた頃って段々組織の中で階層ができてくるわけですね。誰が偉いとか誰が人の上に立つべきだとか。で昔の人も比較っていう手法を持ってたんでどうやって他人の上に立とうか必死に考えたわけですよ。なんでかって?それは人を奴隷のようにこき使いながら好きなだけ女の子とイチャイチャして自分はアホ面かいたってみんな自分に従うからですよ。んで他人と違うことしなきゃって思ったんですよ。そこで思いついた方法が物語を作り上げるという考え方。まあ神の創造ですよね。現実にはいない(って僕は信じてますごめんなさい)と思われている世界を創造して私だけが神と交信できるって皆にいいふらしたわけですよ。そしたらみんなが「こいつ他人と違う」って思ったわけですよ。でもこういうことしてる村って無数にあったわけですね。でみんながみんな「俺達はお前らと違うって優秀だ」って自負してたんです。じゃあ戦ってみるかと。要するにこんだけ歴史を振り返っても比較っていう概念が人類の進化過程においていたるところに隠れているわけです。
で何で比較ってこんなにみんなしちゃうのかって僕もよく調べても考えてもないんで今から言うことは全くの思いつきなんですけど要は「比較という概念を取り入れたほうが人類の生存競争に有利だったんじゃないか」って仮説立ててるんですね。どういうことかっていうと1000人の人個人個人が1人の優秀な人と比較したとすると1000人のうちの半分以上は劣等感抱くわけですよ。その劣等感を抱いた人たちの何人かは「俺もっと頑張らないと女の子にモテナイ!」とか悟ってシコシコ頑張るわけですよ。んでそういうヤツのほうが今の世の中でもあらゆる意味で成功する確立が高いんで結果的に比較という概念をもったやつが(もしくはそういう感情なり理性で考えた奴ら)生き残ったと。そう僕は考えるわけですね。すごいですねーこうやって歴史をたどってくだけで地道な努力をしてる奴は成功する確立が高いっていう当たり前な理論に展開させてしまいました。いや、当たり前なんですけどね(笑)
話は一番最初の「もし地球上に僕一人しかいなかったら。。。」っていう話に戻るんですけど、もし地球上にあなた一人しかいなかったらつまんなくないっすか?まあそりゃまあまあ幸せかもしれないっすけどね。けど他人と比較して戦ってくなんていう人生もワクワクしません?競争とか資本主義社会って原点はそれっすからね。比較ですよ。
んで僕が何をいいたいかって言うと世の中にはすっっげえええって思う奴がゴマンといるわけですよ。この際だから正直に言うと僕はバークレー受かった後にちょっと天狗気味になっちゃったわけですよ。世界トップレベルの大学に受かって周りからちやほやされるとちょっとそう思ったりしちゃうんですよ。でもそれってまるで地球上に自分しかいない時と感覚が似てるって思うんですよね。自分が一番(に近い)みたいな。俺しかいないみたいな。それもそれで不幸じゃないですよ。だけどたかがバークレーっていう看板だけぶら下げて幸せに浸ってる自分ってめっちゃかっこわりいなって思ったわけですね。ワクワクしないしつまらない。日本中には、いや世界中にはもっとすごいやつがいて僕はそういう人たちと過ごしたら身近にいることで自分がどれだけ糞でまだまだかってことに気づいたわけですね。もちろんバークレーがくそっていってるわけじゃあありません。れっきとした権威のある大学です。でも僕はそんなところで終わっちゃいけない。そこの誰よりも上を目指して自分の基準を常に高めないと人間腐るのは早いなって痛感してしまった。
世の中すごいやつって本当にめちゃくちゃいるんですよ。でもっとすごいのがそういうやつらでさえ超えられない人ってやっぱりいるんですよ。僕はそんな人間になりたいと大層なことは言えないけどそういう目標をもって生きてるかどうかってすっごく大切だなって思うんですよね。僕はまだまだ未熟だしやりたいこととか手出したいことはたくさんある。でもそれだけじゃないその上、その上にもっと何かがある。でもやっぱ人間って自分の背丈から背伸びしたくらいしか景色が見えないのと同じでもっと高いところに行くには自分自身が上に行かないといけないですよ。だから負けちゃいけないんですよ。こんなところで。
以上Fringe81の選考会に出席した学生の一人が社長の話を聞いてめっちゃ悔しくなったので思い切って吐き出してみました。そんなすっっっっっごい社長のブログはこちら
田中社長、多分僕は今回の選考会落ちてると思いますが、いつか超えてみます。

最後に僕がここ一番で頑張らないといけない時にいつも聴く音楽で終わろうと思います。