日当たりを知って人生を知る。

別に大したことはないことを考えてみた。住むこと20年にしてやっと、日の当たるところには必ず影がさすということを知ったのだ。故に感情というものはあるようでないようなものであり、その存在の確実性と外見の確かは表裏一体のものであると。衝動的な感情には後ろめたさがあるものであり、とてつもない楽しみには大いなる苦しみが伴う。あらゆる権力には責任が伴うことと似ているようだ。この世に住み始めて10年の頃、衝動的で刹那的な感情に選択と行動を身を任せていた浅はかにも動物的だった私はきっとこの思想の相反することを術をなくして知ることを悟っていたのだと思う。そしてこの世がこの世であり続ける限り、きっとこの陰と陽という二つの関係は消えはしないであろう。苦しさに伴う楽しさ。喜びに伴う侘しさ。これらがあり続けることが芸術を芸術たらしめている唯一の所存だと思う。数十年という年月をかけて教育が私の動物的衝動を底まで剥ぎ取り、その知見は人間関係を形成し、社会への切り返しを繰り返すというこの見え透いたことに一体何の価値があるというのか。人間臭さならぬものを身にまとうことが果たして良いことなのか。一員になることが人生の癌とならぬか。いや、そもそも物事に善悪、良し悪しを導き出そうとするその考え自体が無意味なことなのかもしれない。表裏一体なのだから。