認知的側面から英語習得における言語と感情の密接な関係を説いてみる

留学の諸所手続きはすべて終わり、残された荷物準備やその他リサーチ関係など数えるだけの程に。出国まで残り1週間と考えると緊急性を抱えてはいるものの、そこまで焦ることもない。とは言って油断して直前準備というのもあれなので今のうちからやっておかないと。
さて、ここ数日間を空けて富士山を登ってきた。どうやら世界遺産になったということもあり、入山有料化の話が進んでいるらしくとあるニュースによると7000円にまでなるとかならないとか。登山を考えている読者は今のうちに登っておいた方が経済的にお得。準備、そして頂上に向かうに連れ物価上昇があるのも含め、登山は非常に出費が多いスポーツなので入山料まで取られるとなるとたまったものではない。

登頂の勢いで酒を飲みすぎてしまい、酔ったせいかなぜか無性にブログを書きたくなった。そこで英語及びその他の言語習得におけるポイントについて自分なりの考察をまとめて見たので書き起こしてみようと思う。基本的に前回の主旨との相違はないが、今回はより認知的な観点に基づいて考えてみた。
注:本記事はスマホによる投稿なので誤字脱字に関しては勘弁していただきたい。

結論から言うと、詰まる所英語(及びその他の言語)習熟の度合いはその言語と感情の密接度の度合いによって決まるのではないかということである。この話をする前に言語と感情の前提について話さなければならない。

言語の誕生については複説あるのだが分子生物学によると、言語というものは今から30、40万年前に遺伝子に生じた特殊な変異が言語の獲得に繋がったのではないかととされている。ざっくり分けると言語は主に経験則に基づく感情の解釈に用いられる。ということは、その感情を何らかのの方法を用いて瞬時に言語化(programming)し見出されたその形式的な手法が今の言語の世界に通じていると推測することが可能だ。感情の起伏を言語ラベルによって貼り付け、それらの共有が今日でいう「会話」として成り立っているのだ。とある研究機関に渡る通説ではその言語ラベルには社会的文化的によるものと、生理的なものの2つがあるとされており、いづれも言語として分類することができる。要するに基本的な言語獲得という点においては、我々の遺伝子に生じた言語獲得という変異以来、数十万年も変わっていないのである。

では、英語の言語習得に話を戻して考えてみよう。感情表現の共有のため、我々は言語ラベルによってラベル化された言語を発信することを可能になった状態を「英語が喋れるようになる」という状態とするならば、我々がすべきことは言語ラベル(=コンテクスト)の量を増やすということに他ならない。ツールとしての英語と言われる本質はここにある。

話は逸れるが、自分の中での「英語が喋れる」という状態とは言語はなんであれ、その国の人たち及びその国の言語を母国語とする人たちとの多岐にまで及ぶ不可解ない会話を自然とできる状態であると考えてきた。ただこの個人的な定義づけには決定的な要素が抜けていたのだ。それは喋れるということにおける具体性の欠如である。どういうことか。上記の目標達成を前提とするならば必要な事項は圧倒的に知識の幅を広げるということだけであるからだ。それでは日本的詰め込み型の教育でも達成不可能なものではない。また前記事で紹介した英語習得=コンテクストの増築にもそのようなニュアンスが醸し出されてしまい、個人的に納得がいっていなかったのである。上記の視点から目標達成について考えると、自分の考える言語習得とは英語による感情と言語の階層レベルをその国の人たちとの同等なレベルまで持って行くこと、と再定義できるのである。

それはYou wanna fuck with me?と言われた自分が「あれ、こいつ俺とヤりたいの?」と誤訳をしてしまうレベルなのか、自分自身に対して喧嘩を売られて感情的にイラっとするレベルなのかということとどこか似ている気がする。