えいご

長ったらしい詳細と経緯を書いていたのだが、細かい前置きは全て捨ててもう一回書きなおすことになったので数十分経った今もなお1行、2行目の文章を書いている始末である。結論から言うと、生活環境に関わらない程度の日本語表記のアプリを消すことにした。取り憑かれたかのように日々チェックを怠らなかったNewrsstorm2chアプリ、twitter等日本語表記に関わるアプリを全て始末。今後、専門的学習や要する連絡手段(日本とのやり取り)以外は極力日本語を使うことを控えることにする。新聞を読めなくなったり、文学小説や漫画に触れられなくなるというのは個人的にかなりの痛手である。とはいっても100%日本語に触れない環境というのはいくらなんでも難しいので、週末(特に土曜日)は日本語にも目を通していいことにする。高校時代もほぼ日本語には手を加えていなかったのだから、何とかなる気がする。然程大した決断ではないが、至るまでには少々な挫折(早くも)と執着心があったということだけは書き記しておこう。ちなみに村上春樹は「英語の小説を読むための幾つかの方法」というコラムの中で、

英語を読めるようになるには、英語を読むしかない。
どんなトリックや搦め手を用いようとも、どんなメソッドや教授法を選ぼうとも、読むことを代替する手段はない。
読むことを避けては、どうにもならない。
問題は、どうやって自分を「英語を読む」ことに追い込み陥れるかだ。
英語以外のものは読まないことによって。

本はもちろん、新聞や雑誌、電車の吊り広告すら読まない。
薬ビンに書かれた効能や成分にも目を走らせてはいけない。
かわりに英文を持ち歩く。それを読む。英語以外はダメならば、英語を読むしかない。

当時日本にいたであろう村上春樹にとってこれははっきりいって身も蓋もない話ではあるが、大方抱かれるであろう疑問に対して彼はこう答えたという。
 

それが何か?

「日々必要な情報」って本当に必要なのだろうか?
日々のコミュニケーションを円滑に行うことって本当に必要なのだろうか?
どうやって生まれ出て止まない知的好奇心を満たすことが本当に必要なのだろうか?
どうやって友人や同僚や上司が振ってくる話題についていくことが本当に必要なのだろうか?
本当に必要な情報で、しかも英語を読むことを通じては手に入らないものって何だろう? 
いや、言いたいことは分かる。

ひとつだけ反論しておこう。
本当には必要でないことこそが、日々の生活には本当に必要なのだ。

という一連の文章を日本語で書いた俺は溜息をつくのであった。