コーヒーカップ一杯の矛盾

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/16151?page=2
だいぶ前の記事だが、数日に一度拝見して自分のモチベーション向上に役立っている。多少(いや、大分)の誇張は認めるとして。まずアメリカの学生が勉強すると言うとそういうわけではないし、俺の知る限り勉強量と時間だけで言うならば俺の周りにいる中国人や日本人の方が圧倒的である。

ここの図書館は午前8時から開館なのだが、どの時間帯に出向いてもほぼ満席にというのが当たり前なのだ。当初はファイナルが近いからだと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。あまりにも暇だったので図書館を一周りして人口統計を測ってみたが、ざっと計算したところアジア人56%、アメリカ人33%、その他22%くらいだろう。無論一概に「勉強」しているわけでもない奴らもいるし今回はややこしくなるので全員が一定量の勉強をしているという前提で算出した。
別にそんな柄でもないがふとくだらないことを考えた。何でこんなに勉強するのか。自分の好きなことをやってるわけでもない。ましてや将来の可能性を広げようなんて中二病全開で勉強している奴なんて1人もいないだろう。好きなこととかやりたいことなんて所詮、刹那的で不変いられることなんて不可能だし、基本そういうのって気づいたら「あっ僕これ好きになってました」っていうパターンだ。こういうのは恋愛と同じでその時の感情量と環境(義務度合い)の度合いによって変わったりすると思う。つまり生物学的に魅力のない女の子とお化け屋敷に入ることと成績に直結する最後の締めのfinal examは見方と生理的現象に基づく根拠の違いはあっても、「気になる(った)」みたいなことは相似している。自分自身、受験で勉強した内容の大半はブラックホールだが、受験中に勉強した受験とは関係ない内容についてほとんど覚えている。そしてその科目が掘り下げられてねじれて、ほじくり返して今の自分の「興味分野とやら」に辿り着いた、と言っても過言ではない。
大学受験を行わない(SATはあるが所詮センターレベルの試験なので大学独自の一般入試とは異なる)ましてや入学枠が緩いコミュニティーカレッジで何をそこまで勉強する必要があるのか。正直、自分には理解不能である。というか前述をひっくり返すような発言になってしまうが、俺の周りには勉強をしているのかいないのかよくわからない矛盾タイプが多いように思える。例えば、前に自分のクラスにこんな生徒がいた。よく発言をする学生で日本的「空気を読む」悪臭を散々吸わされてきた俺からすればいわゆる優等生タイプの黒人である。スライドベースの授業で約3スライド毎に必ず質問をする。それもほぼすべてが純粋無垢な授業直結した真面目な質問である。先日テストを終えた彼と偶然スターバックスで遭遇し(彼はスターバックスで働いていた)テスト結果を聞くと平均にも辿り着かなかったという。結局あの授業の率先的な態度は何のためだったのだろう。俺の先入観は別としてちょっと意味不明である。
こんなタイプもいた。中国人で常にゲームばかりしているやつなのだが、全く勉強をしない。というか勉強をしているところを見たことがない。唯一、自分が目にした勉強(しているであろう)光景は彼が自分の宿題の答案を全コピしている時だけである。しかしその彼、授業中にはパソコンでゲームをしながら先生の出した出題を先生よりも早く解こうと勝手に競争している。常に。よって彼の授業の机に必ず計算用のスクラッチペーパーとパソコンが横並びに置いてある。これだけではない。それほどの頭を持っているのにもかかわらず、テストでは何故か自分の方が点数が高い。自慢でも何でもなく、この授業のテスト勉強では基本的に彼が自分に勉強を教えているのにも、だ。
数を出すだけきりがないのだが、とりあえずこのよく分からない矛盾が面白い半分、不思議でたまらない。
だいぶ路線が変わる話を繰り返してしまったが、自分は決して勉強が嫌いな人間でも、勉強をしている人を否定している訳ではないということを一言差し置いておきたい。「一時の無知は恥、後人生の恥、後悔なり」である。

話はまた変わるが、日本の大学と違って専攻や好き嫌いに関わらず自分の分野を幅広く取れる(取らなければいけない)アメリカのリベラル教育に関しては個人的に賛成である。こんな俺でも音楽や映画の歴史の授業やダンスの授業を取らなければいけないと、想像するだけで嘔吐しそうになるけれど。