計算外な卒業

夕方19:50頃、iPhoneのリングトーンで目を覚ました。
「hey r u at the graduation?」
今日は卒業式だったらしい。親が人生に一度しか無い卒業式なんだから参加しとけと言われたのをすっかり忘れていた。ここ最近、文字通り毎日パーティ続きで頭のなかの時間間隔がおかしかった。パーティが明けて、毎朝起きて考えることは「俺はどうやってここに辿り着いたんだろう」という疑問。シャワーを浴びて近くのカフェでコーヒーとパンを頬張りながら友達と昨夜の記憶を思い出しながら半日過ごしてまた次のパーティ備える。コーヒーを飲みながら自分の携帯を見ると、要領が足りないとの警告。撮った記憶のない写真で埋まっているのだ。そして知らない人からの電話やテキスト。とりあえずこっちでやってきたパーティはどれもが激しい物ばかりだ。アメリカまで来てパーティで警察沙汰になることはさすがに想像もしていなかったが、俺の周りでもたくさんの人が薬物や酒で人生を棒に振りそうになったやつを何人も見てきた。前置きが長くなったけど、2年間に渡るアメリカカリフォルニアでのコミュニティカレッジ生活について自分なりに振り返ってみようと思う。
僕にとってコミュニティカレッジは4年生大学にトランスファーするための通り道に過ぎなかった。所詮、それ以上でも以下でもなかった。自分の夢であったバークレートランスファーするという目標を達成するために自分なりに行動計画プランを立ててそれに沿れば受かるのではないかという仮説を立てて証明する。自分のコミュニティカレッジでの生活はこの一言に集約される。しかしながら、そんな自分にも想像していなかった嬉しい誤算や悲しい誤算もたくさんあった。この2年間で恐らく日本では一生出来ないような経験やしてはいけない経験もたくさんした。決して全て人に語られるような自慢話は指で数えられるくらいしか無いが今となってははっきり言ってどれもいい経験だったと片付けるしか僕には出来ない気がする。
まず1つ目は果てしなく人に恵まれたことだ。考えてみると僕が最初にこの大学に来た時は中国人2人の友だちしかいなかった。そして誰とも友達になろうなんてことは思っていなかった。理由は自分の目的を達成する上で友達と深く関わらないほうが効率的だと思ったからだ。GPAを維持するのは意外と大変で面倒くさいこと。何よりもものすごく時間を要する。それを踏まえた上で俺は友達をつくる時間なんて無駄なんじゃないかと思っていた。ただこの中国人2人はものすごく気が合った。それはきっと僕が中国語に惹かれていただけかもしれないし、彼らの奔放さに憧れていたのかもしれない。今でもその内の一人の子とは互いの出来事を話したり、相談し合える仲である。
そしてもう一つ、クラブに所属していたことが第一の要因だった。僕は去年の秋セメスターから現在にかけて2つのクラブのプレジデントをさせてもらっていた。別に自慢でもなんでもないのだが、人が2つもクラブのプレジデントをやっていると少しくらいは有名人になるのは当たり前である。これまでに想像したことにない枠の人たちと友達り、知り合いが格段に増えた。そして何よりも親友とも呼べる人とも出会えた。お互いいつどこで会えるのかは分からない。でもまたお互い成長してどこかで会えることを期待したい。そんな感じで僕はたくさんの種類の人とたくさんのことをした。そしてこのセメスターも終わってしまった。僕との別れを一緒に悲しんでくれる人たちが出来た。このセメスターが最後だと僕が言うと、パーティを上げてくる人やご飯に誘ってくれるクラブ外の人たち。そしてクラブの中の人として夜遅くまでプロジェクトに関わってくれた人たち。たかがBBQ一つでも夜中まで全力で手伝ってくれた人たち。最後のミーティングでサプライズをくれた人たち。そしていつでも楽しむことを忘れない友達。僕は本当に人に恵まれた。結局僕にとってのコミュニティカレッジは人生にとって計算外に大きすぎた。
当たり前のことだが人生には常に計算外の事態ということが訪れる。そして僕は仕事上ではその計算外の出来事をどれだけ失くすかが重要な事だと教えられた。合理的で効率的な社会を目指すとき、人はどこか醜くて冷たい人間にならざるを得ない。でもこうして予想外のことが起きるということが時にはどこかで役に立つかもしれないということもある。でも僕がこうやって考えていられるのは自分が見事にコミュニティカレッジとしての役割を活用して目標を達成したからに尽きる。あくまで結果を出した上での感情のひしめき合いは意味があるが、結果を出さずしてのこれではただの愚痴である。今度はトランスファーの技術的な面を書いてみようかな。